介子推 (宮城谷昌光)

中国には「寒食節」という祭日があるのだそうだ。チャイナネット内の「寒食節_中国伝統節日 - china.org.cn」によれば

寒食節はちょうど冬至の翌日からかぞえて百五日目にあたり、昔の人はみな寒食を百五といった。(略) この日には家ごとに火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国に命令をくだした。長いあいだにこれが次第に風習と化し、独特な「寒食節」となって受けつがれた。寒食の日には、人々は先祖の墓に詣でて故人をしのび、亡き霊を祭ることにしている。

ということである。
この祭日の起源となるのがこの介子推という人物の伝説で、同サイトによると

今を去る二千年ほど前の春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。彼に従がっていた者たちは、その苦しさに堪えかねて、大方は自分たちの活路を求めて離れていった。ただ介子推とその他五、六人の者が、忠義の心厚く、苦しみを恐れずにずっと彼に従っていた。

やがて重耳は晋国の国王になるが、介子推は賞を求めず、綿山へ隠居することになる。重耳は介子推の勲功をつきとめ綿山まででかけ、多数の人をつかって介子推を探させたが、どうしても見つからない。

晋の文公(=重耳)は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親をたずさえて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山ぜんたいを焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。

そこで重耳は介子推を称えて、この日には火を使わない冷たい食事を食べるように全国に命令を下し、それが約27世紀を経た今日にもいきているということだ。事実、「寒食」という言葉をググってみるとたくさんの中国語サイトがヒットする (オレは中国語は読めんが)。今より約2700年前―日本はまだ文明のない縄文〜弥生時代―の頃の伝説が今日の祭日として生きているところに中華の歴史のスケールの大きさを感じる。
ところでこの話を読む前に重耳を先に読むべきだったかも知れない。