終わりの会が育んだ、現代ニッポンの国民性

小学生の頃、毎日帰宅前に「終わりの会」という行事をおこなっていた。今日一日の良かったこと、悪かったこと、その他連絡事項の確認をしたのちに全員で「さようなら」の挨拶を交わしてその日は散会、帰宅となる。Googleで「終わりの会」を検索する(→終わりの会 - Google 検索)とたくさんの経験談が見つかることから、これは教育委員会か何かからトップダウン的に企画された行事だったのかもしれない。
終わりの会のメインは「悪かったこと」。クラスメイトの悪行を訴え、謝罪を求めるものである。「良かったこと」の報告は毎日ほぼゼロであるのに対し、「悪かったこと」の報告は毎日長々と続く。この場で訴えをおこした者は疑う余地もなく正義である。訴えられた者はみんなの前で謝ることになるのだが、ここではただ「ごめんなさい」という言葉を口にすることだけが求められた。内心で反省していようがいよまいが、翌日また同じ悪事を繰り返そうが、とにかく「ごめんなさい」といえばクラス全体の溜飲が下がる。当時どちらかというとおとなしい幼年時代を送っていた私も「学校で宿題をやっていた」という罪で訴えられたことを今でも覚えている。何が悪いのか、誰に迷惑を掛けたのか釈然としないまま、虚空に向かって「ごめんなさい」と言いその場をしのいだ。

秋葉原で無差別殺人があったことを耳にしたのはキャンプ帰途のサービスエリアで、帰宅後にニュースを後追いする形で事件の大きさを確認した。以来4日を過ぎた今でもこの事件に関するニュースが報道され続けられている。この悲劇が安易に消費されてしまうのを防ぐためにも、報道が繰り返し行われることには異議はない。
でも、号泣しながら謝罪をする犯人の両親を各ニュース番組が繰り返し放送することについては、これは何のセレモニーなのかと思う。犯人はもう立派な年齢である。両親は息子を大学に入れ、社会へ届けたわけである。息子の起こした事件は凄惨なものとはいえ、報道はなぜ両親に断罪を求めるのだろう、と思う。
話を変える。昨今、プライベートで犯罪を犯したことに対して、その犯人のつとめる会社の経営陣が記者会見を開いて一斉に頭を下げるニュース映像を頻繁に目にするけど、あれは何だ。経営者は社員のプライベートについても全面的に責任を持たなければならないのか。ある事件などは、まるで社員の性癖を会社が責任を持って管理することが求められているようなニュースっぷりだった。
また話が変わるが、先週の深夜、コンビニのレジに並んでいるときに、私の前に並んでいた なで肩の男が、精算の終わるや否や「店長を呼べ」とレジ担当の店員にすごんだ。なんでも、店員が精算後彼にレシートを渡さなかったことが気に障ったらしい。この男は、とにかく店長の登場と謝罪を執拗に求める。

今から20年前に毎日行っていた「終わりの会」。当時の情景を思い出しながら、いまの日本は「終わりの会」的価値観で満たされているな、と思う。なにか事件が起こると、とにかく責任者を探し、謝罪することを求め、自らの正義を確認する。謝罪をする者は一つの儀式のようにそれをこなし(実際、カメラの前で謝罪する彼らは被害者ではなく世論に向かって謝罪を行っている)、謝罪の受け手はそれでひとまず溜飲を下す。これは上で述べた終わりの会そのものじゃないの。

いま小学校で行われている終わりの会は、私の頃のものとは様子が違うらしい(一例:「http://blog.cybozu.co.jp/yamada/2006/02/post_2ebf.html」)。いまの日本に蔓延する上のようなくだらない謝罪大会は、私を含めて、あの「終わりの会」教育を受けた者たちが一掃され、新しい「終わりの会」で育った人で社会が満たされる日になるまで続くんじゃないだろうか、と思うのだ。