いただきます論

考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争−家庭:MSN毎日インタラクティブ」という記事を題材にブログエントリを立てるのが流行しているようだ。

TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半〜、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。番組でのやり取りを参考に、改めて「いただきます」を考える。【文・遠藤和行、写真・米田堅持】

◇「私の場合」を募集

手紙は東京都内の男性から寄せられ、永六輔さん(72)が「びっくりする手紙です」と、次のように紹介した。
《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》
番組には数十通の反響があり、多くは申し入れに否定的だった。あるリスナーは「私は店で料理を持ってきてもらった時『いただきます』と言うし、支払いの時は『ごちそうさま』と言います。立ち食いそばなど作り手の顔が見える時は気持ちよく、よりおいしくなります」と寄せた。
一方、母親のような考え方は必ずしも珍しくないことを示す経験談もあった。「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」との内容だ。
また、申し入れを支持する手紙も数通あった。学校で「いただきます」を言う際、手を合わせることに「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいるという。

電子レンジや炊飯器で簡単に食事が用意できてしまう昨今、「作っている人に感謝して『いただきます』」という論理はもはや説得力を持たない。米は百姓さんの八十八の手間がかかっている云々の談話も、スーパーで米がランク付けされて売られている昨今は力が薄い。
オレが小さい頃に親や祖父母から教えられたのは、引用元で永氏がおっしゃるのと同様に『「あなたの命を私の命にさせていただきます」の、いただきます』という考え方。
人は生きていく以上、他の動(植)物の命を奪わずに生きることはできません。かわいそうだと思うかも知れませんが、それが「生きる」ということです。生きる以上、自分が生きるために命をもらうことになる動(植)物を供養してあげなければなりません。命を供養する方法、それは「いただきます」「ごちそうさま」をはっきりと言うこと、そして残さずに食べることなんですよ。
そういえばおれがこの観念を学んだのは、家族旅行先で「鯛の活け作り」を食べたときだったなあ。切り刻まれているにもかかわらず必死で頭部と尾部を動かし続ける鯛を見ていられなかった。大人たちがそんな鯛を平気で食べるのが信じられなかった。そんなときに諭されたのが上の教えだった。
両親や祖父母からのこの教えは、おれはどんな聖人の教典よりもすぐれたものだと思う。そういえば以前に海外へ行ったときにそこで知り合いになったガイジンが「食事の前に『いただきます』と言う日本の文化は美しいと思うよ」と言っていた。
将来たとえ何か特別な信仰をもつ人を配偶者として迎えることになったとしても、この教えを子供に強く伝えつづけたいと思う。