小学生が本当にしなければならない「夏休みの宿題」とは



「読書感想文」から「自由研究」まで、夏休みの宿題を片づける「宿題代行業者」が登場し、賛否を呼んでいる。メールなどで届いた依頼に、アルバイトの学生らが有料で応える。多くの小中学校で夏休み最後となる今週末は“駆け込み客”が殺到しているというが、「家庭学習の習慣を身につけるという本来の趣旨に反している」と、教育関係者は批判的だ。

この記事で一番驚いたのは、依頼者が親だということである。夏休みの宿題というのは親子で共に取り組むことで、親子の絆を再確認するための大切なイベントではなかったか。
自分が子供の頃には本当にイヤで仕方がなかった夏休みの宿題だが、いま振り返るとやはりあれは大切な社会人への「糧」だったと思う。ただし全ての宿題を自力で真面目にやりとげることが必ずしも大切だと言いたわけではない。いやまぁ真面目にやるに越したことはないけど。
夏休みの宿題は退屈だった。すべて真面目にやろうとは思わず、いかに計画的に省力するかをいつも考えていた。ドリルは全ての問題をやるのではなく、ページ内の一部の問題はわざと手をつけずに放置した。算数ドリルは電卓が基本。ただしいかにも自分で計算したように見せかけるために、欄外にニセの筆算跡を添えた。中学生の頃には、単語の綴り練習に2本の鉛筆で一気に2行書きすることで作業時間を半分にした。
所詮、子どもによる小手先のねつ造であり、おそらく大人たちにはバレていたに違いない。でも私が夏休みの宿題をとおして学んだのは「計画性」と「客観的視点」だ。どうすればすべてを真面目にやったように見てもらえるか。親にも先生にもバレないか。こういう視点を誰の入れ知恵も受けることなく自分で考えるのである。
その後、高校生ぐらいになってねつ造は何の成果も生まないことに気づき改心したが、夏休みの宿題で芽生えた計画性と客観的視点がその後生長し社会人としての糧となったことは間違いない。
私が小学生に夏休みの宿題を通して身につけてほしいと思うのは、「横着の技術」なのである。
しかしもし、すべての宿題を真面目に自力でやる習慣を身につけていたとしたら自分は、今よりももう少し良い境遇にいたのだろうか、と思わんでもない。