1995年1月17日生まれ、15歳 (追記あり)

年末年始に実家に帰省したときに神戸新聞紙上でたまたま見つけた広告記事。2009年12月31日付けの朝刊だったと思う。
1995年1月17日生まれ

次のようなことが書かれている。

Note taken on 09/12/31 09:53:35JST.

元木勇志。もうすぐ15歳。来年の春、高校生になります。

誕生日は、1995年1月17日。

あの阪神・淡路大震災の日に東灘区で生まれました。

物心ついたときには、知っていました。

お父さんやお母さんから聞いていたから。

正直、自分の誕生日は、とても複雑な気持ちになります。

お祝いはするけど、亡くなられた方には、その日は命日。

もしかしたら、自分も生まれてくることは

なかったかもしれない。それを思うと、素直に喜ぶのも

何か悪いような気がしたのです。

でも、当時の出産の様子を母から聞くと、そんなふうに

考えるのはやめて、もっと前向きに、明るく、たくましく、

生きていかなくては逆に申し訳ないと思うようになりました。

周囲はとてつもない被害に遭ったのに、

奇跡的にかかりつけの産婦人科が無傷だったこと。

停電のなか、ろうそくや懐中電灯を灯しながらの出産。

暖房も切れていて、体が冷えないように

ずっとタオルに包まれ温められていたこと。

何があってもへこたれず、立ち上がり、困ったときには支えあう。

そんな人の輪のなかで、僕は産声をあげた。

「勇志」という名前には、その時のみんなの気持ちが

込められているような気がしてなりません。

今では、この日に生まれてよかったとも思っています。

命のありがたみを忘れずに持ち続けていられるから。

(以下、広告文のため省略)

胸が熱くなった。同じ部屋に親がいる手前、感情が目に溢れてこないように必死にこらえた。

もう、15歳なんだな。

あれはセンター試験の2日後だったか。下から突き上げられるような強烈な揺れに目が覚めた。いつまでも揺れ続けていた。後に、その揺れの大きさが震度4だったことを知ったが、体が硬直して動けなかった。小学生の時に体験した山崎断層地震の震度4と同じだったなんて未だに信じない。その日の夜になって初めて、自分の志望校が被災地になったことを知った。鉄道がまだ不通だったため前期試験を志望校では受験できず、特別に設けられたサテライト会場(岡山大学)で受験した。

新快速に乗って神戸に通う日々が始まった。当時の一日で一番憂鬱な瞬間は、電車が長田駅を通過する瞬間だった。やたら遠くまで見えてしまう、真っ黒に焼けた街。昔、社会科資料集で見た、終戦直後のヒロシマの写真を連想させた。六甲山への途上で高台にある大学から見える風景は100万ドルの夜景にはほど遠く、屋根に被せたブルーシートが一面に瀬戸内海まで及ぶ風景だった。

この学校を受験する直前には、いろんな人から再考を促された。うかったとしても、きっと楽しいことなんて、ないんじゃない。せっかく1年間一生懸命勉強してきたというのに、アンタの大学生活、それでいいの? その言葉は、入学が決まってからもしばらく心の中にわだかまっていたけど、大学の食堂へつながる階段に設けられたサークル専用掲示板に貼られたビラ群の、底抜けの明るさを目にしたときに、そんな不安は消えた。きっと楽しい大学生活になる。

この街の復興の早さは異常だった。通学路から見えるブルーシートは少しずつ姿を消していった。グラウンドにあった仮設住宅もいつの間にか無くなっていた。大学生活が充実していくにつれ、多くの神戸の人たちと知り合いになった。そして、ユニフォームの肩に「がんばろうKOBE」というキャッチフレーズを書いたプロ野球球団が優勝を決めたとき、地元の人たちと肩を抱き合って、歓喜し、涙した。当時まだ神戸には住んでなかったけど、神戸が心のふるさとになった瞬間だった。神戸に住むことを決めたのは、それからもう少し後の話になるのだけど。

もう、15歳なんだな。

追記1

こんなCM流れてるんだな。それにしても震災をネタに使うのは卑怯だ、心が動いてしょうがない(笑)

追記2

1996年のナショナルのCMに、勇志くんが登場してた。