検察審査会体験記 (2/2)

前回の記事の続きであります。今回は、私が審査員として過ごした6ヶ月のうちに感じたことをつらつらと書き連ねる。

もうすこしメジャーにならないか検察審査制度

先述の通り、検察審査員に任命されると、6ヶ月の任期の間、月2回の頻度で招集されることになる。月2回程度なら負担も軽微だろうと思っていたのだけど、これが意外に大変だった。

なぜか分からないが、審査会議の招集される日に限って、自分に関わる特別業務の日程にやたらと衝突した。前向きに取り組んでいた企画に泣く泣く不参加を表明せざるをえないことも少なからず。

また、月2回の招集日は大体一定の曜日に設定されていることが多いのだけど、本職プロジェクトの定例会議がこの曜日に設定されている場合、会議の二回に一度は欠席しなければならなくなる。同プロジェクトのメンバーのなかにはこれに良い顔をしない人もおり、なんだか肩身が狭い。自分が公務に就いていることを説明すれば良いのだけど、「検察審査員として選ばれたことを公にすることは望ましくない (参照:http://www.courts.go.jp/kensin/q_a/shokumu_gimu.html)」 とのことだし、また説明するとしてもまず検察審査会という制度について説明せにゃならず、面倒だし。

せめて「検察審査会」制度の知名度がもう少し高ければ、これほど肩身の狭い思いをすることもなかったのかなぁ、と思うこともあった。

もっとも、明石花火大会歩道橋事故やJR福知山線尼崎脱線事故に関する検察審査会の活躍によって、徐々に本制度の知名度が向上しつつあるふうではある。


検察審査会議のおもしろさ

宝くじ並の確率で務める羽目になった検察審査員だけど、正直、良い経験になったと思う。実際、事件や事故に遭われて苦悩しておられる申立人の方々に申し訳ないとはおもいながらも、私はこの仕事を楽しんでいた。

私たちが普段テレビや新聞などで接する事件報道には、すべて色がついている。一方が正義でもう一方が不正義、だ。だけど検察審査資料の中にある事件事故は、検察によって不起訴相当の判断が下されているとはいえ、そういう色がついていない。あるのは証拠と供述のみだ。

任期中に数多の事件事故に接して実感したことだけど、世の中で発生する事件・事故の多くについて言えることは、「正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義」*1なのである。この2つの正義に対して、これまで自分が獲得してきた偏見のコレクション (=常識) と付け焼き刃な司法の知識を尺度として、検察の不起訴判断が妥当かどうかの意見を組み立てていくわけだ。面白くないわけがない。

また、前回も書いたとおり、机を囲む十数名は見事に属性が分散しており、多様な職業人が集っている。彼らが自らの経験を元に組み立てる意見もとても新鮮で、大いに視界を広げてくれる。

事実は小説よりも凄惨なり


それにしても、だ。

私自身がまだ深刻な事件事故に巻き込まれたことがないため無自覚だったのだけど、自分が想像する以上に、世にはフィクションのような事件事故が多く発生しているんだということを思い知らされる。まるで小説のような愛憎劇、不幸の重複、そして、底なしの悪意。他人のプライベートを垣間見るにつけて、人生はコントロールできない、まったく何が起こるか分からない、ということを改めて思い知る。

会議の内容については他言できないので、ここで事件の具体例を挙げられないのがもどかしいのだけれど。

世の正義なんてこんなもの

日本の司法は「疑わしきは罰せず」という証拠裁判主義に則っているが、これが結果的に被疑者に有利に働いてしまう例に多く遭遇した。被疑者の供述や行動に明らかな悪意や隠蔽が読み取れても、それについて第三者の証言や客観的証拠がなければ、検察の不起訴判断を不当とする意見を組み立てることができない。

この世に遠山金四郎などはいないわけで、勧善懲悪を導くことは困難だ。

今後自分が何か事故に巻き込まれたときには、まず証拠や証人を確保するように心がけよう、と心に誓うのであった。

何のための検察審査会

審査員としていくつかの案件を経るうちに、かならず疑問に思うことがある。

検察審査会では、司法のプロフェッショナルである検察が「不起訴」判断した案件に対して、ただクジ引きで選ばれただけの、アマチュア以下の素人集団・検察審査員がその妥当性を判断するというものである。なので、多くのケースにおいて、百戦錬磨を誇る検察が下した判断に対して付け込む余地を見つけることなど、われら素人集団にはできない、できるわけがない。

つまり、何のための検察審査会なのだろう、という疑問だ。

ところで、去る2010/1/28のニュースで、次のような記事を見つけた (ソースへのリンクは切れてます)。


 兵庫県明石市で2001年7月に起きた歩道橋事故で、神戸第2検察審査会は27日、業務上過失致死傷容疑で書類送検され、神戸地検が4度不起訴にした明石署の榊和晄(かずあき)・元副署長(62)(退職)について「起訴議決」をし、公表した。改正検察審査会法施行後、起訴を求める議決は2度目で、規定により神戸地裁が指定する弁護士が業務上過失致死傷罪で起訴する。最高裁によると、改正法に基づいて起訴議決され、強制起訴になるのは全国で初めて。

 市民から選ばれた11人で構成される同審査会は、議決書でまず、基本的立場が検事とは異なると明言し、「有罪か無罪かの検事と同様の立場ではなく、市民感覚の視点から、公開の裁判で事実関係及び責任の所在を明らかにして、重大な事故の再発防止を望む点に置いている」とした。

...

市民感覚の視点」――― このニュースを読んで初めて、素人集団の検察審査会に求められているのは、これではないかと思った。

検察審査会は、検察官と同じ土俵で相撲を取ることを求められているわけではないのだと思う。検察とおなじ基準で事件を審査する必要はなく、自分の感覚に基づいて判断することこそが求められているんだよ、きっと。

自分の任期中にこれに気づいていれば、あの理不尽な事件の不起訴判定を差し戻せたかも知れないなぁ、と後悔している。証拠が足りないという理由で不起訴を支持してしまった。

長文を書いた理由

以上、思わず長文になってしまい失礼しました。

もう一度審査員に任命されれば、前よりもしっかりと正義を果たすことができるという自信はある。けれど、きっと私はもう検察審査員を拝命することはないだろう (だって確率低いし)。残念なのは、自分の体験や反省を受け継ぐのが、任期の後半3ヶ月間に審査会議室をシェアした次群の5人の審査員だけということだ。

ブログやツイッターといったソーシャルメディアが次々と勃興する今でも、検察審査員体験の記事は驚くほど少ない。この土壌でこの記事をpostすれば、きっとGoogleが瞬時にインデックス化し、ワード検索リストに並ぶことになるだろう。すると、得体の知れない「検察審査員」という制度に一方的に任命され不安を感じている人の目に触れるに違いない。本エントリを読んでくれた彼(彼女)は、きっと私の後悔を引き継ぎ、晴らしてくれるはずだ。

そう思って書いた。


最後に私のリアル世界の友人のみなさまへ私信です。前回書いた通り「検察審査員として選定されたことを公することはおすすめできません」とのことなんで、私がこの期間に検察審査員をしていたということはできるだけ他言しないようお願いします(笑)。

*1:野原ひろしの言うとおり